2015年1月16日金曜日

はじめて国語は楽しい、そして不穏だと思った短編-太宰治「水仙」


国語の授業で出てきた物語の中で、忘れられない作品はありますか?私はあります。
太宰治の「水仙」。

先日やっとKindleで読み返すことができたので感想をログ。



あらすじ

小説家の「私」の家を、家単位で行き来のあるお金持ちの草田惣兵衛が訊ねる。妻の静子が「あたしは天才だ」といって逆上、家を出たまま帰ってこないというのだ。後日、静子は絵をもって「私」のもとを訪ねるが、「私」は彼女の絵を見ることなく冷たく追い帰す。
「私」は静子に絵を教えている老人のアトリエに押しかけ、彼女のデッサンを見るが、破いて捨ててしまう。



感想


なぜ学校の国語でこの物語を入れたのか


たしか小学校高学年か、中学校の教科書で出逢った短編だったと思う。全体的に暗く、太宰治のねたみそねみアイズ全開。静子は狂うし、最後には自殺してしまう。しかも作中の「私」は、静子のデッサンを破った理由を「読者の推量にまかせ」てしまう。こんな話ってあるのか。

おさなかった私は読んだ当初、なぜこんなオチも見つけるべき教訓もない話が学校の教科書に採択されたのかまったくわからなかった。けれどもその時触れたどんないい物語よりもずっと心に残っていた。ずっと心にひっかかっていた。


なぜ「私」は静子のデッサンを破いたのか


水仙の絵は、断じて、つまらない絵ではなかった。美事だった。なぜそれを僕が引き裂いたのか。それは読者の推量にまかせる。静子夫人は、草田氏の手許に引きとられ、そのとしの暮に自殺した。僕の不安は増大する一方である。

子どもの頃に読んだときは静子が狂って病んでしまう描写が不穏だった。「大人なのに、おだてられて前後見失って家出しちゃうんだ!」みたいな。

今改めて読むと、静子よりも彼女の絵をみたあとの「私」の行動が心にひっかかる。「私」、たぶん太宰治の投影なんだろうけど、はなぜ静子の絵を良いと思いつつ破ったのか。なぜ彼女の師匠に「つまらない絵だ」といったのだろうか。

嫌な見方をすれば太宰のひがみ根性が発動したのかもしれない。もう一方の目から見れば、静子の手紙の独白の通り、自分に才能はなかったという静子の思いに寄り添ったのかもしれない。
あるいは審美の正誤よりも、家庭ある婦人の一生を台無しにした芸術それ自体を否定したのかもしれない(自分も小説家という芸術に身をおき審美の目に晒されているにもかかわらず、だからこそ)。

ちょっとでも勉強やスポーツができれば「天才だ」ともてはやされる思春期前の子どもに、この「狂った殿様」の話を読ませる大人の魂胆自体もちょっとこわい。警鐘だろうか。


審美とは、評価とは、真実とは


この短編を今読むと改めて、審美眼とか評価とかってなんなんだろうねって考え込んでしまう。

この目線で物語を切り取る太宰治自身がきっと、人間の審美眼とか才能の評価、人の評価といったものの危うさ揺らぎやすさに敏感だったんでしょうね。

ここまで書いたけど太宰治は人間的に好きになれない。でも大人になってからこの「水仙」読んだらぐう、やっぱ面白い。

さくっと読める話なので未読の方はぜし。




参考

検索して面白い関連を見つけたのでリンク貼らせてもらいます~





誰かを傷つける罪とひきかえに、“ほかの誰か”を楽しませることを物書きはする。でもそれだって本当のところは、“ほかの誰か”を楽しませたいわけではなくて、自分が楽しいから、それをするのだと思う。たとえひとをひどく傷つけても、書くことが楽しいから、自分の喜びだから、それをしてしまうのだ。

げに。


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